東京都知事を1979年から4期16年務め、都庁舎の新宿移転やお台場など臨海開発を手がけた鈴木俊一(すずき・しゅんいち)さんが14日、死去した。99歳だった。
 1910年生まれ。東大卒で33年に旧内務省に入り、現在の地方自治制度の骨格づくりに携わった。内閣官房副長官などを経て都副知事を8年務め、64年の東京五輪を手がけた。68歳で美濃部亮吉氏の後の都知事に当選。約3年で都財政の赤字を解消した。3期目に臨海副都心計画に着手。91年4月には都庁舎を千代田区丸の内から新宿区に移した。4期目の選挙では、自民党が分裂。党都連が推した鈴木さんが、党本部擁立の磯村尚徳氏を大差で破った。知事引退後も東京国際交流財団会長を務めたが、退職後は公職から退いていた。

戦後の地方自治制度の生みの親の一人で、元東京都知事鈴木俊一氏が14日午前、死去した。99歳。東京都出身。自宅は東京都杉並区永福2の32の5。
 1979年から4期16年間、都知事を務めた。堅実な行政手腕で、美濃部革新都政時代に悪化した都財政を立て直し、91年3月には有楽町から新宿への庁舎移転を実現した。都心への一極集中是正を目指し臨海副都心建設を進めたが、バブル崩壊で財政悪化を招き、副都心を舞台に開かれる予定だった世界都市博覧会は、次の青島幸男知事(当時)によって中止された。33年、東京帝国大(現東大)卒。内務省に入り、自治事務次官、内閣官房副長官首都高速道路公団理事長などを歴任。戦後、地方制度改革案の取りまとめや地方自治法地方財政法、公職選挙法などの制定、改廃に携わり、今日の地方自治の基礎を築いた。東龍太郎都政の副知事時代には東京五輪の道路や施設などの整備に取り組み、日本万国博覧会協会事務総長として大阪万博を切り回すなど戦後日本の大イベントにも貢献した。

「東京というハコは鈴木氏がつくった」。こう評されるほど、元都知事鈴木俊一氏の現在の東京の街作りへの貢献は大きいといわれる。新宿の東京都庁舎、「お台場」に象徴される臨海副都心…と枚挙にいとまがないが、鈴木氏の名を一躍有名にしたのが、都副知事当時の昭和39年に開催された東京五輪だ。
 当時の東龍太郎知事が学者出身ということもあり、五輪に伴う開発計画を実質的に取り仕切ったほか、45年の大阪万博日本万国博覧会協会事務局総長として切り回すなど、戦後日本の大イベントにも貢献した。
 内務省解体後発足した地方自治庁で事務方トップの次長に就き、昭和33年に自治事務次官を辞めるまで8年間も次官(次長含む)を務めた。地方自治法制定にも携わり、「地方自治の生き証人」としての自負も強かった。
 都知事時代には、美濃部都政時代に悪化した財政を再建する一方で大型プロジェクトに邁進(まいしん)。平成3年の都知事選では、当時の小沢一郎自民党幹事長らによる“鈴木降ろし”をはねのけ、磯村尚徳・元NHK特別主幹らに圧勝。だが、都政運営の締めとなるはずだった臨海副都心での世界都市博覧会は、次の青島幸男都知事(当時)の手で中止に追い込まれた。
昭和61年に勲一等旭日大綬章を受章。都知事退任後は平成13年まで東京国際交流財団会長を務めていた。座右の銘は「生涯現役」。鈴木氏が都知事時代に秘書を3年間務めた都交通局の金子正一郎局長は「地方自治の王道を外さない方で、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』というぐらい、周囲に気を使う方だった」と振り返る。また、同じく秘書を務めた、都知事本局の荒川満理事は「昭和61年の伊豆大島噴火の時には、静岡に避難した島民を『東京の人々だ』と言ってバスで避難先に迎えに行くなど、本当に都民を大切にした。ご自身が100歳となられたときに(石原慎太郎知事の)お祝い訪問を楽しみにしていた。残念です」と語った。

14日死去した鈴木俊一東京都知事は、都財政を再建し、東京を「世界都市」に育て上げることに情熱を注いだ。旧内務官僚として卓越した行政手腕を発揮したが、晩年はワンマンぶりも指摘され、批判も少なくなかった。
 「惨たんたる幕引き」と自ら漏らした美濃部亮吉前知事を引き継いだ鈴木氏が、力量を見せ付けたのが財政再建。幹部ポストの削減、老人無料パスの一部有料化などの思いきった手で、約3500億円に上る累積赤字を短期間で解消し都政の基礎を固めた。
 明治生まれの気骨をみせたのが、4期目を目指した1991年4月の選挙。「鈴木降ろし」を狙う小沢一郎自民党幹事長(当時)や公明党を相手に戦い、圧勝した。強力なリーダーシップと行政マンの頂点としての自負は、一方で独善とも映った。執念を燃やした東京湾臨海副都心開発では反対意見に、「やればできるもの。東京五輪大阪万博もそうだったんです」と経験を盾に、強気を貫いた。しかし、計画は曲折し、今なお手付かずの土地も残っている。

東京都知事で、内閣官房副長官なども歴任した鈴木俊一(すずき・しゅんいち)氏が14日午前、死去した。99歳だった。都庁関係者が明らかにした。
 1933年に旧内務省入り。地方自治法の制定など戦後の地方自治制度の土台づくりに携わった。日本万国博覧会協会事務総長などを経て79年の都知事選で初当選。91年には都庁を丸の内から西新宿に移転した。手堅い行政手腕で都財政を再建し、4期16年の在任中、大規模施設を相次ぎ建設。「箱モノ重視」との批判も浴びた。自身の肝いりで計画した世界都市博覧会は後任の青島幸男知事が中止を決定した。82年、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。87年勲一等旭日大綬章を受章。

「都政だけでなく、自治官僚として日本の礎を作った方だった」。旧内務省のドンとも称された鈴木俊一東京都知事の訃報(ふほう)に、あるベテラン都議はそう話し、死を惜しんだ。さらに「非常に責任感が強かった。己にも部下にも厳しい人だった」と続けた。
 14日夜、東京都杉並区の閑静な住宅街にある鈴木元知事の自宅には、親族とみられる男女数人が出入りしたが、集まった報道陣の問いかけには無言だった。関係者によると、親族は「静かに見送りたい」と密葬を希望しているといい、公式な発表は15日以降になるとみられる。
 自治官僚時代、地方自治法制定にかかわり、地方自治への思いが強かった。91年に4選した際の知事選では、高齢多選を批判した自民、公明、民社(当時)の党本部が元NHKキャスターを擁立したのに対し、「東京の自治を守る」を旗印に、自民、民社の両都連の支援で立候補。高齢批判を吹き飛ばそうと、選挙戦で両ひざを曲げずに両手を足元につけるパフォーマンスを披露し、話題を呼んだ。その結果、小沢一郎自民党幹事長(当時)らの「鈴木降ろし」をはねのけ、圧勝した。4選後、有楽町から移転した新宿の新庁舎に初登庁した際、「やっぱりこの机、いす、落ち着きますね」と語った。
 94年12月に5期目の出馬をしないことを表明。96年に開催を予定していた「世界都市博覧会」を後任の青島幸男知事が中止した時は、「サリンをまかれたようだ」と怒りをあらわにした。言動であまり注目されることのなかった鈴木氏にとって、唯一の失言ともいえ、無念の思いの強さをうかがわせた。大相撲のファンで、長く横綱審議委員も務めた。知事退任後、東京国際交流財団会長を01年まで務め、有楽町の旧都庁跡地につくられた国際フォーラムにある財団の職場に通い続けた。

東京都知事を連続4期務め、自治事務次官、内閣官房副長官などを歴任した鈴木俊一(すずき・しゅんいち)氏が14日に死去したことが、都庁関係者への取材でわかった。
 99歳だった。鈴木氏は東京生まれ。1933年に東京帝国大学法学部を卒業、旧内務省に入った。43年に当時の東京府東京市を一本化する「都制度」の創設に携わり、戦後は地方自治法公職選挙法の制定、「昭和の大合併」を手がけ、後に「地方自治の生き証人」とも称された。59年には東龍太郎都知事のもとで副知事に就任。東京五輪開催に向けた基盤整備など、戦後復興期の東京で大規模プロジェクトを次々に完成させた。副知事退任後は、日本万国博覧会協会の事務総長として70年の大阪万博を成功させた。79年には美濃部亮吉都知事の引退を受けて都知事選に出馬。念願の初当選を果たし、最多の連続4期を務め、95年4月に勇退した。在任中は破綻寸前だった都財政を再建。臨海副都心開発にも尽力し、「世界都市博覧会」の開催を96年に予定していたが、後任の青島幸男知事(故人)が中止を決断し、大きな波紋を呼んだ。

本記事群は,2010年5月14日に逝去された鈴木俊一東京都知事の訃報.各紙の報道状況をご紹介(五十音順).
各紙では,鈴木俊一東京都知事への形容の仕方が異なっている.まず,朝日新聞では「都庁舎の新宿移転やお台場など臨海開発を手がけた」と主に東京都知事の職にアクセントを置き形容されている.次いで,共同通信では「戦後の地方自治制度の生みの親の一人で,元東京都知事」と,地方自治法制定にも言及し形容される.産経新聞では「「地方自治の生き証人」戦後日本の大イベントにも貢献」と,地方自治法制定と東京都知事に加えて,「東京オリンピック」「大阪万博」の「仕切」りや「切り回」しの側面からも形容されている.時事通信では,「都財政を再建し,東京を「世界都市」に育て上げる」と,前知事により生じた「約3500億円に上る」「財政赤字*1を「短期間で解消」した点から形容されている.日本経済新聞では「元東京都知事で,内閣官房副長官なども歴任」とその公職就任経歴を淡々と紹介.毎日新聞では「旧内務省のドン」と,その形成にも携われた「自治制度官庁」*2の側面から形容されている.最後に,読売新聞では,「東京都知事を連続4期務め,自治事務次官,内閣官房副長官などを歴任」と,公職歴をもって形容される.
斯くも,決して一様には形容されることのない,鈴木俊一東京都知事.2000年に,過ぎゆく「20世紀」と「昭和八(1933)年の内務省入省以来,平成七(1995)年に東京都知事を退任するまでの六十二年間」の「公職」を振り返り,記された随想「公職六十二年」では,「私の心に深く刻み込まれた三つの出来事」*3として,「内務省の解体,そして地方自治庁の誕生」,「東京オリンピック」,「昭和四十五年の大阪万博日本万国博覧会」を取り上げる.そして,特に,後者2つの「オリンピック,そして万博.戦後日本の象徴ともいえる二大事業に責任者として参画,共に大成功を収めることができたのは,私の人生にとって一番の感激であり,誇りでもある」と,「東京オリンピック」に関しては「オリンピックの関係で副知事になった」*4一方で,「大阪万博」に関しては「図らずも」「引き受けた」*5とも回顧されるものの,両イベントへの思いが一方ならぬことが分かる.そして,「その経験と,内務・自治官僚としての蓄積を糧に,東京都知事を十六年間勤め上げることができた」とする.そして,同随想では,「父が東京府の蚕業取締所技師を務めていたこともあって,子供のころから何とはなしに東京府知事について関心を抱きつづけていた私が都知事になることができた」ともあり,(下名だけかもしれませんが,意外にも)父なるものへの郷愁から知事職就任への思いも述べられている.
「子どもの頃になりたかった職につくことのできた私は,存外な幸せ者だったのだろう」*6と,同随筆を締めくくられた鈴木俊一東京都知事.人はなりたいものとなった,「幸せ者」としての生涯.心よりお悔やみを申し上げます.

*1:礒崎初仁・金井利之・伊藤正次『ホーンブック地方自治』(北樹出版,2007年)31頁

ホーンブック 地方自治

ホーンブック 地方自治

*2:金井利之『自治制度』(東京大学出版会,2007年)4頁

自治制度 (行政学叢書)

自治制度 (行政学叢書)

*3:鈴木俊一著・立田清士編『鈴木俊一著作集第7巻〔皇室・巻頭言・随想・雑さん〕』(良書普及会,2001年)387〜388頁

*4:鈴木俊一『官を生きる』(都市出版,1999年)250頁

官を生きる―鈴木俊一回顧録

官を生きる―鈴木俊一回顧録

*5:前掲注4・鈴木俊一1999年:271頁

*6:前掲注3・鈴木俊一2001年:388頁