やはり歴史の生き証人だった―。今年で完成75周年を迎えた富山県庁本館の4階大ホ ールの天井裏に、1945年8月の富山大空襲の際にできたとみられる複数の焦げ跡が今も残っていることが、14日までの県管財課の調査で確認された。太平洋戦争終戦間際の 大空襲では、県庁本館にも焼夷弾(しょういだん)が直撃。当時の職員の奮闘でかろうじて消失を免れたと伝わっており、同課の担当者らも、戦火を乗り越えて県民を見守ってきた「職場」への畏敬の念をあらためて強くしている。
 焦げ跡が確認されたのは、大ホール天井裏の南東側。鉄骨にぶら下がるような形で、表面が炭化した長さ約40センチ、約15センチ角の木片が残っているほか、付近にあるコンクリート柱の一部も、うっすらと黒ずんでいる。屋根には、焼夷弾が飛び込んだ際に開いたとみられる穴を埋めた痕跡もある。穴のほぼ 真下に位置する鉄骨は曲がっており、県管財課は「これも焼夷弾の影響によるものである可能性がある」とみている。県営繕課によると、大ホール天井裏では戦後、耐震補強などを目的とした改修が複数回行われている。改修でも焦げた木片などが撤去されずに残った理由について、同課は「構造上はなくてもまったく問題はないが、あえて外す理由もなかったので、そのままにしたのではないか」と推定する。
 現在は職員の辞令交付や各種式典などの会場として使用されている大ホールは、当初は 県議会議事堂として造られ、3、4階が吹き抜けとなっていた。富山大空襲の時には、天井をぶち抜いた焼夷弾を火たたき棒や布団などで懸命に消火したとされる。大ホール天井裏は普段、立ち入り禁止となっているため、職員でもなかなか見ることはできないが、県管財課は「歴史が刻まれている庁舎であることを再確認した。これからも大事に使っていきたい」としている。

本記事では,富山県の庁舎に残る1945年8月の空襲の焦げ跡について紹介.「1954年3月からのあいつぐ空襲は,三,四か月のうちに大中都市を焦土と化」*1し,同県もまた「家も工場もなにもかもが焼け野原」*2となるなかで残る,「昭和10年に竣工した」*3同県庁本館の「傷跡のうずき」*4
「類似したものがないから,想像できないというのでは熱意不足である.もっと自己省察が必要である.自己の内部の暗闇をより広くより深く探照できるほど,それだけ広く他人の背後にある暗闇を探照できる.自己を無限に観察できる者は,他人を無限に理解できるはず」*5であることは,自治行政を観察するうえでの「歴史が刻まれている庁舎」への眼差しにおいてもまた然りか.静かに考えてみたい.

*1:升味準之輔『日本政治史3政党の凋落,総力戦体制』(東京大学出版会,1988年)305頁

政党の凋落、総力戦体制 (日本政治史)

政党の凋落、総力戦体制 (日本政治史)

*2:富山県HP(知ってなるほど!富山県なるほど!これが富山県)「歴史

*3:富山県HP(組織別案内知事政策局 広報課 )「県庁本館竣工75周年記念イベント

*4:升味準之輔昭和天皇とその時代』(山川出版社,1998年)12頁

昭和天皇とその時代

昭和天皇とその時代

*5:升味準之輔『なぜ歴史が書けるのか』(千倉書房,2008年)30頁

なぜ歴史が書けるか

なぜ歴史が書けるか